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抽象と具体 帰納と演繹

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抽象と具体 帰納と演繹

タイトルの2セットの言葉は、多くの人が目にしたことがあり、またその意味について悩んだことがあるのではないでしょうか。

 様々な説明があるが故に、どれを信じたらよいかわからず、人によって全く違う説明をしていることがある(曖昧な言葉に言い換えてみたり、溶液の濾過で説明しようとしたりとかね)
ので、結局わからずじまいな人も多かったことでしょう。
 今回はその「抽象と具体帰納と演繹」について説明し、最終的には「そもそも『因果』とはなんなのか」についてまで説明して説明を終わらせたいと思います。
そんななかでこのブログの説明が、あなたの学道を照らす一筋の光となることを願ってみたりしますん・・・
一応「僕の考えた一番真実に近いであろう解釈」であるので、このまま鵜呑みにして海の藻屑と散ることは奨めませんが、「ちょっとこれはちがうんじゃないか」って人はコメントにて指摘まってます。


 でははじめに、【抽象と具体】とは何なのか、について説明したいと思います。
簡単に言いましょう、「抽象」とはすなわち「具体」の「共通点を抜き出しまとめたもの」です。

 意味がわからない、と言う人は、そもそも「具体」の意味がわからないのでしょう。例を挙げてみます。

世の中には様々な人がいます。目が悪い人、常人離れした筋力を持つ人、盲腸を手術してとった人、長掌筋が退化してる人・・・それぞれ様々な個性を持ち、他の人とは違う存在になっています。双子でさえも、同じ容姿、同じ好みになれども、ちがう部分があるでしょう。
それら「個々別々の存在」のことを、具をもつ体、「具体」といいます。

 それでも、個々別々である彼らは同じ共通点を持っています。少なくとも「人間から生まれた」もしくは「人間に似てる度合いが高い」すなわち「人間」であるという共通点です。
先ほどの例に出てきた「個々別々の存在」=「具体」対し、その共通点を抜き出しまとめた「人間」=「抽象」と呼ぶことができます。
わざわざ「対し」という部分に下線を引いたのは、その具体と抽象の分類が「相対的」すなわち「あい対するもの、比較される対象があって初めて存在しうる物」であり、
人間、犬、猫、ウサギという物を「具体」として設定すれば動く生物=動物という「抽象」がうまれるからです。

 つまり、抽象と具体というのは共通点を抜き出してまとめる時に生まれる、まとめたものとまとめられた物に対する呼称に過ぎないのです。



 そして【帰納と演繹】とはなんなのかについて説明したいと思います。
これについては、先ほどの具体と抽象が理解していればすぐにわかるはずです。

帰納」とは漢字の通り「(共通点を)帰して納める」ということです。言い換えると具体物を抽象物にする、いわゆる「抽象化」と言うことができます。
つまり「個々別々の存在から共通点を導き出す」ことを帰納と呼びます。

「演繹」とは漢字の意味とすこし齟齬(意味のズレ)があります。
演繹は「(共通点をまとめた物を)演(ひろげて)繹(ひっぱりだす)」ことですが、
正確に言うと抽象物から個性を添加して具体物を作りあげる具体化」と言った方がよいでしょう。抽象とは具体物から個性を「取り除いた」もの(この作業を捨象と呼びます)だから、抽象を広げて引っ張り出しても、抽象された物に対して説明しているに過ぎません。
まとめると、「共通点をまとめたものから個性を加えて個々別々のものにすること」を演繹と呼ぶのです。

 帰納と演繹を説明するときに俗に言われる「人間のA君は死んだ、人間のBもCも死んだ。人間の僕もいずれは死ぬだろう」というのを帰納の説明に、
「人間は死ぬ物だから、人間のA君も、B君もC君も死ぬだろう」というのを演繹の説明
使いますが、わざわざ推論風にするのは「演繹と帰納」という言葉が上記のような「思考、推論法」の際に使われる呼称であるからです。

 一般的に帰納的思考は具体的事象をすべて導き出さなければそれは完全に証明できたといえず(つまり正確な答えを出すのはほぼ不可能に近く、具体的事象一つで覆ることがある)逆に演繹的思考法は抽象的事象が正しければ必ず正しい答えが出ますが、抽象的事象にミスが見つかれば答えがひっくり返るという一長一短がありますが、
演繹的思考は人間の事情で作為的なものが介在されにくいので一般的に好まれます。(まぁレッテル貼りは間違った演繹的思考の最たる物なので、どちらにしても作為的に論を組まれるとがないということはありません)

(日本語に普段なれているので気づかないことが多いのですが、日本の知識階級の言語はもともとの純日本語の上に中国語の概念を輸入した上に、最近になり西欧の概念を上書きした故、特に哲学や専門用語は多義語のオンパレードで僕のような一般人にとっては非常にわかりにくいものとなっています。なれているならば私たちが普段使う「寒い」などの多義語も文脈で意味が選択できるのでしょうが、知識が薄い部分ではどうしても勘違いや不理解がでてしまいます。「帰納的推理」ひとつにとってみても、広辞苑では広義の意味と狭義の意味にわけられ、広義では「演繹的に妥当ではないが正当であるとみなされる推論」などいふ意味不明な説明がなされており、狭義になってやっと「個々の具体的事実から一般的な命題ないし法則を導き出すこと」という、よくわからないけどたぶん僕が考えているのと同じ意味だろう、というものがでてきます。
この記事ではなるだけそういうことがないように、できるだけ言葉の意味を確定できるよう注意を払っていますが、それでもわからんという人はコメントで注文してください。)


 そして、最後は【因果】についてです。言い換えると「原因と結果」、例をあげるならば
「人を押すと倒れる」「石をたたくと割れる」など、皆さんもすぐ浮かぶでしょう。
ここまで言えば勘がいい人は気づくでしょう。「原因=抽象」「結果=具体」と言うこともできるのです。
例に挙げた「石をたたくと割れる」の「石を叩く」は抽象的原因で、「割れる」という具体的結果が導き出されるし、それを思考にむりやり当てはめるなら「演繹的に割れるという結論が導き出される」ということもできるでしょう。
逆に、「割れる」という結果、具体を見れば、原因の「石を叩く」という抽象を帰納的に導き出すこともできる。
ここで「割れる」という言葉が「何かの物体によって衝撃を受け、石の結合が分離された」という具体的説明を、他の事象にも適用できる「割れる」と略し、いわば代理抽象語を使っていると言うことを頭にとどめておいて欲しい。一見「割れる」という言葉からは「石を叩く」「劣化して」「熱膨張によって」など様々な原因が推測できるため、「割れる」という言葉自体の抽象性と実質的な具体的意味を混合していしまうことがあるからです。


 世の中の事象はすべて因果関係によって成り立っています。それは言い換えれば抽象と具体に酔って成り立っており、そして帰納と演繹というもので説明、推測することができます。
それは自明のことではなく、私たちが今まで生きている中で数々の因果関係を目にすることで蓄積された黄金律、世界の基礎でもあるのです。
因果関係を逸脱するものが存在しない限り、私たちはその基礎を元に様々なことが説明できるし、また推測ができるでしょう。

 世界は複雑に見えて、その実は単純な二項対立の組み合わせにより構成されているのです。
ですが、未だに解明されてない因果関係という物も数多くあります。
 そのことについては後々説明していきたいと思います。



どうだったでしょうか。すこしわかりにくかったと思うので、後々ベン図と樹形図で説明できたらなと思います。指摘もまた歓迎です。投稿内容は予告なしで変更される可能性があります。。。
 
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